
プロローグでも触れたように、私の最初の留学先はかくして、スイスとの国境に近いアヌシーとなった。
出発の少し前に、これも不思議なのだが、友人の紹介でゴダールの翻訳家で知られる奥村昭夫氏と出会いがあり、ご自宅へ遊びに行かせていただいた。そこでアヌシーに行くなら、とお勧めのエリック・ロメール監督のDVDをわざわざいくつかDVDに焼いて送ってくださった。そのため事前に『クレールの膝』をみて、アヌシーについて予備知識を持つことができた。実際にはこの映画には、アヌシーの街は少ししか出てこないのだが、映画の冒頭は、アヌシーの有名な橋「Pont des Amours (恋人たちの橋)」 の上で「ジェローム!」と主人公の1人オーロラが呼ぶシーンから始まるのである。翡翠色の運河と緑の木々、白と赤のボートが印象的な冒頭である。
アヌシーに住んだ3ヶ月は、この橋を毎日自転車で渡って学校へ行っていたのだから、改めて考えてみると不思議な気持ちになる。
さて、アヌシーの日々の生活は、ホームステイを選んだので、ホストファミリーと3ヶ月過ごすことになった。パリからTGVでアヌシー駅に着いた初日、当時70代のローズノエルおばあちゃんは、車で迎えに来てくれていた。不安そうに駅から出てくる私を必死で探していた。事前に手紙と写真を送っていたので、見つけられるようになっていた。そして私が先にローズノエルを見つけ、近づいて挨拶したら、すぐに暖かく抱きしめてくれた。私たち2人の生活が、そこから始まった。ローズノエルは、とても芯が強く、フランス女性らしい性格だった。定年まで看護士として働き、一人息子を育てあげたと言っていた。その息子は芸術家となり、彫刻を創る傍ら、舞台美術の仕事をしていた。また、アジアの美術を愛するローズノエルの家には、書もいくつか飾ってあり、私たちはすぐに打ち解け、毎日色々な話をした。最初は言葉が全然通じなく、辞書を見せ合いながらの会話だったけれど、不思議と通じあっていたきがする。
自然派志向の彼女は、庭で野菜を作り、旬な果物をジャムにし、おやつには素朴なタルトを焼いてくれた。プロテスタントを信仰していた彼女は、シンプルな生活を好み、ものを大切にし、いつも上手に再利用していた。例えば、サランラップは使ったものも一度洗ってキッチンの壁(タイル)に貼り付けて乾かし再利用、靴下は穴を縫って履き、シャワーのお湯はちょっとずつしか出ない仕様になっていて、お皿洗いの時は、必ず水を溜めて洗う。冬には編み物も教えてくれ、私は滞在中に毛糸の帽子と、靴下が編めるようになった。ローズノエルの家で迎えた私の誕生日の朝、いつものようにダイニングルームに行ったら、ふんわりと暖かそうなローズ色のフリース地の部屋着が手紙と一緒に置いてあった。私が学校へ行っているあいだに、陰で私のサイズに合わせて手作りしてくれていたのである。知り合って間もない頃だったのに、こんな風に接してくれたことがとても嬉しかった。平日の夕ご飯のあとは、居間でテレビを見ながら、宿題を手伝って貰うのが日課で、週末には近所の山へハイキングに行って、一緒にクルミ拾いをしたりした。クリスマスには、いつもは質素なおばあちゃんのお料理も、ご馳走が並び、デザートは何種類も用意された。一人息子もこの日には帰ってくるのだ。部屋に飾ったもみの木の下には、沢山のプレゼントの箱が並ぶ。私にもいくつかの箱が用意されていた。ローズノエルの弟家族が送ってくれた箱には、キリンや象が描かれた鮮やかなオレンジ色のスカーフが入っていた。私はそれがとても気に入って、その頃よく身に付けていたのを今でも鮮明に覚えている。
そしてクリスマスが終わって、年があけたらエクス=アン=プロヴァンスへ引越し。アヌシーの語学学校で出会った国籍も年齢も様々な友人たちと過ごした日々、道で出会ったフランス人アーティストとの交流、近所のベトナム人女性との交流、この3ヶ月で世界が圧倒的に広がった。そして私はこのとき、書は芸術なんだ、ということを認識し始めたのである。それまで書は、技術的なことを習得するもの、つまり書を続ける意味は、研究と継承することだと思っていた。しかし、書は、絵画や詩などのように芸術であり、表現する媒体なのだと理解したのである。目から鱗であった。
現地の言葉を学び、交流を通して、私とフランスとの関係が始まった。それまでもパリには何度か行ったことはあったけれど、言葉を学ばなかったので、一方的な感覚しか持てなかったのである。この時の留学から20年ほどたった今、芸術活動を続けていられるのは、本当にこの経験があったからで、そして出会ったすべての人に感謝している。
2. エクス=アン=プロヴァンスへ